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ポルトガルの宗教

ポルトガル共和国は国教を制定していない。そのような中で最も優勢宗教は、ローマ・カトリックである。
2011年の調査によると、ミサに参列し、定期的に秘跡を受けているのは人口の僅か19%のみだが、より多くの人々が洗礼を受ける事や結婚式を挙げる事、そして最後の典礼(英語版)を受ける事を望んでおり、ポルトガルの人口の91.4%がカトリック教徒だと答えている。
ポルトガルの休日や祝日の多くほとんどが異教起源で宗教的な意味合いを含んでいる。例えば教育と医療制度は長い間教会の役割である。多くの場合では建築、橋、高速道路が開通した時にはいつも聖職者から祝福を受けていた。憲法上の政教分離によって教会と国家は正式に分離しているが、カトリック教会はそれでも一定の特権を保っている。統計的には、宗教的実践は年齢が上がるにつれて増加傾向にあり、若年層は高齢者と比べて関心が低いという証拠が出ている。

日本とポルトガル、大航海時代

日本とポルトガルの関係について解説する前の注意点は以下のとおりである。
1580年から半世紀ほどポルトガルはスペインに事実上併合されている時期がある。しかしながらポルトガルの統治機構などはそのまま継続・維持されているので、その時期も当然含めるものとする。

大航海時代以後ポルトガルは積極的な海外進出とブラジル経営を中心として国力を伸長させ、16世紀初めには東南アジアへ進出し、日本近海へも活動域を広げ始めていた。
大航海時代(だいこうかいじだい)とは、15世紀中頃~17世紀中頃まで続く、主に西南ヨーロッパ人によって開始されたインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地を求め航海に続々と海外進出した事を指す。このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。
この言葉「大航海時代」の名称は、岩波書店にて1963年に「大航海時代叢書」を企画していた「地理上の発見」、「大発見時代」といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、別の視点からの見方を持つという面から増田義郎により命名された。増田によれば、大航海時代の始まりは、1415年におけるポルトガルのセウタ攻略から始まり、それから三十年戦争が終結した上で、ロシア人の探検家セミョン・デジニョフがチュクチ半島のデジニョフ岬に到達した1648年までを言う、としている。

今から約500年も前である1543年、種子島へポルトガル商人が鉄砲伝来とともに漂着したことが日本人とポルトガル人の最初の接点であったとされている。ポルトガルは当時、アジア地域へ植民地および貿易相手国を求め進出を行っており、日本との接触を求め商人の動きが活発化していた。
また、キリスト教の布教を伴って貿易も行う戦略が背景にあり、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。日本人には馴染みの深いフランシスコ・ザビエルは1549年には日本を訪れキリスト教布教活動を行っている。
その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始され、1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開していった。ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に流入していった一方、日本からは銀などがポルトガルへ流出した。同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生した。キリシタン大名とは、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信、洗礼を受けた大名のことである。
。江戸時代に入ると禁教令も出されたため、秀吉に改易されながらも最後まで棄教を拒んだ大名たちはマニラ(フィリピン)に追放され、刑死し、以後キリシタン大名は存在しない。
彼らの領内にいたキリシタンたちは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、島原の乱という大規模な一揆の際に殺害されるなどし、歴史の表舞台から消えていった。

言葉に見る日本とポルトガル

16世紀に、ポルトガル、スペイン、イタリアから日本にもたらされた西洋文化をまとめて「南蛮文化」と呼ぶ。
これには、活字印刷機や地球天体説などは、当時の日本にも大きく影響を与えた重要な要素である。この時代、言葉の面でも、ポルトガル語に影響された日本語が実はかなりある。

一部、ポルトガルから日本語になったものを以下に記す。



元のポルトガル語     ポルトガル語の意味    現在の日本語


capa カッパ       マント、表紙       合羽

carta カルタ       手紙           かるた

copoコッポ        コップ          コップ

bolo ボーロ       ケーキ          小さい丸いお菓子

confeito コンフェイトウ 砂糖菓子、キャンディ   金平糖

frasco フラスコ     ガラスの小瓶       フラスコ

meias メイアス      靴下           メリヤス

jarro ジャーロ      水差し          ジョーロ

tabaco タバコ      たばこ          たばこ

veludo ヴェルード    ビロード         ビロード 

vidro ヴィードロ     ガラス          ビードロ



室町・安土桃山時代から江戸時代に至るまでは、南蛮文化であるポルトガルブームが浸透した。
ポルトガルは南蛮渡来の貿易品だけでなく実に様々なものを日本に伝えた。
例えば16世紀末、豊臣秀吉はきらびやかな刺繍を施した深紅のビロードのマントやカッパなどの南蛮ファッションを好んで着用した。それらは家臣にも勧めたと言われている。京都では,ポルトガル人が着ていた袴(カルサン)や下着(じゅばん)などが庶民の間で流行し、南蛮モードを安価で仕立てる店まで出現したほどである。当時の日本人が初めて見聞きする品物にはポルトガル語がそのまま使われ,徐々に日本人の暮らしになじんでいった(上記参照)。今でも日常的に使われる言葉でポルトガル語が転じて日本語になったものは多くある。

風呂敷の作法

風呂敷は平包み、衣包みなどとも呼ばれており、昔からものを包む布として便利に利用されてきました。
風呂敷を使ってものを包む場合は、結び目を作ってしばって持ち手などにするのが一般的ですが、贈答用の場合は基本的には結び目は作りません。
結婚祝いなどの場合、結び目を作ってしまうと、あける際に結び目をほどかないといけなくなり、結び目をほどくという行為は、結婚祝いの場合は縁起が悪いといわれているので注意が必要です。
結び目を作らない平包みの作法ですが、祝儀の場合は風呂敷の裏側を広げて中央にのし袋を置きます。
そして左側を折りたたみます。
のし袋の上側、下側、右側の順番でたたんでいき、最期は左側にはみ出した部分を内側に折ります。
不祝儀の場合はこのやり方と反対に包み折るのが正しい作法になります。
祝儀用の風呂敷は柄のあるような派手なものでも構いませんが、不祝儀の場合は派手ではない色の無地のものを選ぶようにしましょう。